江戸時代の浮世絵に関する芸術家の名前は多数思い浮かびますが、その浮世絵や浮世絵師を世に送り出し、普及させることに尽力した人物についてはあまり知られていません。
今回は、江戸時代に活躍した版元(今の出版業者)、「蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)」にスポットを当ててご紹介します。
蔦屋重三郎は、2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」の主人公として登場します。
大河ドラマで蔦屋重三郎役を演じるのは、横浜流星さんです。
蔦屋重三郎は、喜多川歌麿や東洲斎写楽といった世界的に有名な浮世絵師を見出して世に送り出しました。
さらに、黄表紙や洒落本といった大衆文芸においても、多くのベストセラー作品を出しています。
今回の大河ドラマでも
「親なし、金なし、画才なし……ないない尽くしの生まれから“江戸のメディア王”として時代の寵児になった蔦屋重三郎。その生涯を、笑いと涙と謎に満ちた物語として描く」――これが放送局の口上だ。
引用:文春オンライン
とのことで、面白おかしく楽しめる内容に仕上がっています。
そこで、今回は、よく知らない方のために、蔦屋重三郎は何をした人なのか?その生い立ち、結婚した妻、子供・子孫の現在、死因・処罰された理由などについてご紹介していきます。
蔦屋重三郎は何をした人?生い立ちから紹介
蔦屋重三郎は何をした人なのか?生い立ちからご紹介していきます。
蔦屋重三郎は何をした人?
蔦屋重三郎の簡単な紹介についてはこちらです!
名前 :蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう、
本名丸山 柯理『まるやま からまる』
本姓喜多川 柯理『きたがわ からまる』)
生年月日 :1750年1月7日
死没 :1797年5月6日没(47歳没)
出身地 :新吉原
著名な実績 :版元、狂歌師、戯作者
代表作 :「吉原細見」
影響を与えた芸術家:大田南畝、恋川春町、山東京伝、曲亭馬琴、喜多川歌麿、
葛飾北斎、東洲斎写楽など
蔦屋重三郎は、寛延3年(1750年)に、江戸の新吉原(現在の台東区千束)で生まれ、20代のときに、吉原大門前に書店「耕書堂」を開業しました。
「吉原細見」や「黄表紙本」の発行に携わり、エレキテルを復元した平賀源内や多くの文化人と交流しました。
東洲斎写楽や喜多川歌麿などの江戸文化を代表する多くの作家を見出し、当時の「江戸のメディア王」として大成功しました。
続いて、蔦屋重三郎の生い立ちを簡単に見ていきましょう。
蔦屋重三郎の生い立ち
1750年江戸・新吉原にて誕生
江戸の新吉原で生まれ、本名は丸山柯理でした。
後に吉原で茶屋「蔦屋」を経営する喜多川氏の養子となったため、本姓は喜多川 柯理となりました。
1772年には吉原大門前に書店開業
吉原細見の小売を開始します。
1774年吉原細見鳴呼御江戸を刊行
序文を平賀源内が執筆しています。
その後、一目千本(花すまひ)を刊行し、これが蔦屋としての処女作です。
吉原細見の出版が本格化していきます。
しかし、1775年版元鱗形屋が処罰を受け吉原細見の出版が中止になりました。
1780年黄表紙、往来物の出版を開始
その後、吉原細見を独占販売し、耕書堂が日本橋油町(中央区大伝馬町)に進出します。
1790年書物出版取締令(徳川家斉、寛政の改革の頃)
財産が没収され、山東京伝の洒落本などが取締対象になりました。
喜多川歌麿の美人画を発売します。
1794年東洲斎写楽の役者絵を発売
140作品を発表します。
1797年脚気により病没
47歳没。
蔦屋重三郎の生い立ちを簡単にご紹介しましたが、短い生涯ながらも、江戸時代の華やかな大衆文芸を支え、優れた浮世絵師を世に送り出した傑出した人物であったことがよくわかります。
蔦屋重三郎の結婚した妻や子供・子孫の現在は?
続いて、蔦屋重三郎の結婚した妻や子供・子孫の現在について調べました。
結婚した妻の名前は「トヨ」です。
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妻トヨは、本屋の町娘で、蔦屋重三郎が吉原での出版業の成功において、彼を支えた重要な存在でした。
しかし、妻トヨの生まれや家族の詳細については、記録が残されていません。
大河ドラマでは、蔦屋重三郎の妻として登場するのは 「てい」となっています。
こちらは、脚本家の森下佳子さんによるオリジナルのキャラクターです。
トヨをモデルにした妻で、 ドラマの設定や脚本上の創作だそうです。
ちなみに、大河ドラマでは、橋本愛さんが「てい」を演じます。
蔦屋重三郎の子供や子孫の現在について
蔦屋重三郎トヨとの間に子供がいたかどうかの記録が残されていません。
また、子孫についての情報も確認できませんでした。
現在成功している有名な「TSUTAYA(蔦屋書店)」との関係性についても、 蔦屋重三郎の子孫が関わっているわけではありません。
しかし、「TSUTAYA(蔦屋書店)」は、蔦屋重三郎の業績にあやかって命名されており、今もメディアや出版業界に大きな影響を与えていることは間違いないでしょう!
ちなみに、蔦屋重三郎の死後、蔦屋の事業は番頭の勇助が引き継いでいます。
勇助は蔦屋家の婿養子で、二代目「蔦屋重三郎」を襲名して事業を引き継ぎまし た。
また、二代目の後は、息子の祐助が三代目を継承、四代目には後の「二世三亭春馬」、 五
代目には喜多川竹吉がその名を継いでいます。
蔦屋重三郎の死因や処罰された理由は?
次は、蔦屋重三郎の死因や処罰された理由について調べてみました。
蔦屋重三郎は、1797年(寛政9年)に死去しましたが、死因は脚気(かっけ)でした。
脚気は死に至る病ではなく、ビタミン欠乏症です。
出版で成功し財力があった蔦屋重三郎は、毎日白米ばかりを食べていたために、罹った病だと言われています。
1787年(天明7年)、老中「松平定信」実施した「寛政の改革」の中での「出版統制令」が原因で蔦屋重三郎も処罰されました。
当時は、商人文化全盛の頃でしたが、幕府は財政難だったため、農村業を復興し、経済の実権を商人から取り戻すための財政改革を行っていたからです。
庶民には質素倹約を促し、贅沢で風俗を乱す者、政治批判する者を厳しく取り締まりました。
1791年(寛政3年)に山東京伝は著書の洒落本が風俗を乱したとして処罰され、蔦屋重三郎も山東京伝の本を出版した科(とが)で、財産半減の処罰を受けました。
まとめ
いかがだったでしょうか?
今回は、蔦屋重三郎は何をした人なのか?その生い立ち、結婚した妻、子供・子孫の現在、死因・処罰された理由などについてご紹介いたしました。
2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」を見るうえでの参考になったでしょうか?
また、東京国立博物館では、2025年4月より、特別展「蔦屋重三郎 コンテンツビジネスの風雲児」が開催される予定です!
江戸の当時のメディアのことや、人気役者・人気絵師のつながりのことがよくわかるようになっていますのであわせて体験してみてください。
それでは、今回もご覧になってくださりありがとうございました。